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歴史

1941年12月8日の日記

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 76年前の今日、1941年(昭和16年)12月8日は日本軍の真珠湾攻撃並びにマレー半島上陸により太平洋戦争(アジア・太平洋戦争、大東亜戦争)が勃発した日である。
 この開戦についての研究や議論は未だ絶えないところであるが、今日のブログでは当時の人間がこの開戦の当日、何を見て、どう感じたのか。それを手元にあったいくつかの「日記」を通じて紹介したいと思う。
 なお、この記事は太平洋戦争に対して積極的な肯定や否定を意図したものではなく、「開戦当時を生きていた人間が開戦をどう見たのか?」という学術的かつ野次馬的興味に基づき執筆するものである。
 手元資料の関係上、紹介する日記は政治家などの手によるものが中心になる。各項目のタイトルの括弧内は開戦時の役職等。また、カナ書きのものはひらながに修正、横書きで表現できない踊り字も修正しているが、それ以外は刊行本の表記に従い引用をしている。手打ちのため誤字脱字があった際には御寛恕ください。

1.芦田均日記(衆議院議員)

○芦田 均(あしだ ひとし、1887年(明治20年)11月15日 - 1959年(昭和34年)6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、副総理、内閣総理大臣(第47代)などを歴任した。(ウィキペディアより)

12月8日 月曜日 (東京)
When the Express arrived 岐阜, my colleague 大野伴睦君 told me “とうとう始めたねー” This was areal thunderbolt. At Nagoya a boy handed me 号外 and we learned the communique issued this morning.
In the train, looking at brilliant sun-shine, I savored contemplation.Kennedy once said “End of the World, End of Every Thing!” At Tokyo station met スミ子,ミヨ子.
東京 was quiet, blackout everywhere.
Attended 国政(原文ママ)調査会会合 (Dinner).
I spent a bed night.
  ↓
(Google翻訳に力を借りた意訳)
 急行列車が岐阜に到着したとき、私の同僚大野伴君が「とうとう始めたねー」と言った。これは本当の雷鳴であった。 名古屋で少年が私に号外を渡し、今朝発表された政府声明を読んだ。
 列車の中で、輝く日差しを見て、私は熟考した。 ケネディはかつて「世界の終わりである、すべてのものの終わりである!」と言った。 東京駅でスミ子とミヨ子に会った。
 東京は静かで、町中が灯火管制をしていた。
 国政調査会会合(夕食)に出席し、私は床についた。

 なぜかこの人の日記は日本語交じりの英文で書かれている、読みづらいことこの上ない。それはさておき、芦田は日記中に出てくる衆議院議員の大野伴睦らとともに東條内閣に協力的な翼賛議員同盟に反発し『国勢調査会』(文中の国政調査会と同一か?)を結成、それを母体に『同交会』を結成し東條内閣と対峙した。
 あいにく私は英語が大の苦手であるのでニュアンスでの読み取りとなるが、日記で芦田は大野の「とうとう始めたねー」という一言に「雷鳴だった」と述べている。リベラリストであり東條内閣の姿勢に懐疑的であった芦田にとって開戦は相当に衝撃的な出来事であったのだろう。日記後段で引用しているケネディ氏(パトリック・ジョセフ・ケネディか?)の言葉「世界の終わりである、すべてのものの終わりである!」と言うのは芦田自身の心境であろう。

2.入江相政日記(昭和天皇侍従)

○入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 - 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。(ウィキペディアより)

十二月八日(月)快晴 快適 六、三〇 一一、三〇
 いよいよ日本は米英両国に宣戦を布告した。来るべきものが来たゞけのことであり却ってさっぱりした。九時前に出て省線で浜離宮へ行く。天気が良くて鴨は余りとれない。零時半のニユースによると遠くハワイにまで爆撃に行つてゐる。痛快だ。一方シンガポール、フイリツピン、グワムは勿論、馬来(筆者注、マレー)に敵前上陸。泰と共同、馬来より侵入した英軍を撃退中との事。三時に三井さんと一緒に出勤(鴨猟には主猟官は鍋島陸、島津久範、牧野伸通、京極高光、石川諸氏)。宮城前には大学生の旗を持つての行進、その外民草の奉拝引きも切らず。五時半帰宅。君子は留守、子供は予が帰るのを待つてゐる。すぐ鴨を料理して一緒に食べる。令子は五膳、為年三膳、可愛いゝ。七時五十五分電報で召集される。布哇ではウエストバージニア、オクラホマの二隻撃沈、その他四隻大破、大型巡洋艦四隻、航空母艦一隻、運送船一隻。マニラでは飛行場二ケ所で夫々五十機撃破、何と嬉しいことであらう。侍従長、鮫島さんと握手する。十時半帰宅。入浴。十一時入床。

 こちらは芦田とは打って変わって快哉の声を上げている。開戦当日より前数日間には日米開戦に関する言及は無いことから入江は午前7時の臨時ニュース(午前6時付け大本営発表)で開戦を知ったものと思われる。その後「却ってさっぱりした。」気分で浜離宮の鴨場へ出かけている。出勤時に目にした大学生の行進や国民の宮城への奉拝など開戦時の国民の熱狂を綴っている。
 いったん帰宅した入江は再度宮城へ呼び出され真珠湾の戦果を伝えられたようだ。なお実際の真珠湾での米海軍の損害は以下のとおりである。「空母に損害を与えた」という誤認以外は概ね正しい情報が宮城内部まで共有されていたようである。

   戦艦3隻沈没、2隻大破着底、1隻中破、2隻小破
   軽巡洋艦2隻大破、1隻小破
   駆逐艦2隻大破、1隻中破
   標的艦1隻沈没(戦艦改装)
   その他1隻沈没、2隻小破

   当時の入江は侍従とはいえ、いわばヒラの国家公務員のである。そのため他に上げた人々と比べ開戦の受け止め方は一般国民のそれと近いのではないだろうか。

3.宇垣一成日記(元陸軍大将)

○宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。(ウィキペディアより)

今朝日対米英の国交断絶と同時に布哇、フィリピン、馬来方面に於て我軍は活動を開始せり。布哇に対する我海軍の快捷はお手際也。戦の門出は縁喜よし。緒戦序幕は上出来上首尾也。併し戦争はこれからであるから須らく油断大敵、勝て兜の緒を確かと締めねばならぬ!!(十二月八日)

 威勢は良いが至極あっさりとした印象を受ける記述である。開戦時は陸軍から退いていた宇垣だが、この開戦の4年前、1937年(昭和12年)に宇垣は首相候補に上がったことがある。軍部の突き上げにより広田弘毅内閣が総辞職した際、過去に加藤高明内閣の陸相として「宇垣軍縮」を成し遂げた宇垣に軍部を抑える役割を期待されたのである。だが、組閣の大命を受けるも陸軍の協力が得られず、宇垣内閣は流産した。
 その〝非戦派〟の印象を持たれる宇垣にしては威勢よく開戦を祝すような記述だが、開戦6日前の12月2日の日記で宇垣は「愚直と浅薄なる輩の仕業の為に国運を沈衰せしめ自己をも没却せしめねばならぬ様に如何にも遺憾至極なれども、之れも時世、浮世、君国の運命なりと諦むる(中略)残念至極也。」と述べ、半ばやけっぱちの心境であったのかもしれない。

4.木戸幸一日記(内大臣)

○木戸 幸一(きど こういち、明治22年(1889年)7月18日 - 昭和52年(1977年)4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。(ウィキペディアより)

十二月八日(月)晴
 午前十二時四十分、東郷外相より電話にて、米国大統領より
天皇陛下への親電をグルー大使持参せる趣にて、之が取扱ひにつき相談あり。依って、外交上の硬貨の手続等については首相と篤と相談せられたき旨を述べ、陛下は深夜にても拝謁の御許しはあるを以て、それ等の点を顧慮するの要なき旨を述ぶ。
 一時半、松平宮相より、電話あり、同上の件なり。意見を述ぶ。
 東郷外相参内すとの通知あり、余も亦二時四十分参内す。宮中にて外相と面談。
 三時半帰宅す。
 七時十五分出勤。今日は珍しく好晴なり。赤坂見附の坂を上り三宅坂へ向ふ、折柄、太陽の赫々と彼方のビルディングの上に昇るを拝す。思えば愈々今日を期し我国は米英の二大国を対手として大戦争に入るなり。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇を空襲せるなり。之を知る余は其の成否の程も気づかはれ、思はず太陽を拝し、瞑目祈願す。
 七時半、首相と両総長に面会、布哇奇襲大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。
 十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当たりても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極なりき。
 宣戦の大詔は渙発せられたり。
 十二時半、牧野伯来庁、面談。
 三時五分より二十五分迄拝謁す。
 六時、鶴子同伴、大給[義龍]伯披露宴に出席す。

 几帳面に書かれた日記である。概ね淡々と事象を書き連ねているが、通勤途中に真珠湾攻撃の成否を想い「思はず太陽を拝し、瞑目祈願す。」と不安な心境をのぞかせている。木戸は重臣として第三次近衛内閣の総辞職後、後継に東條を推挙し、戦争初期は東條内閣を支えるものの戦況が不利になるにつれ和平工作を進めた。終戦後の東京裁判での自己弁護的な供述などから毀誉褒貶相半ばする人物である。だが、開戦当日の拝謁時の昭和天皇の様子を「聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極なりき」というあたり天皇を支える思いは本物であったのかもしれない。

5.齋藤隆夫日記(元衆議院議員)

○斎藤 隆夫(さいとう たかお、1870年9月13日(明治3年8月18日) - 1949年(昭和24年)10月7日)は、日本の弁護士、政治家である。(ウィキペディアより)

十二月八日
 風邪去らず、不相変用心す。正午倶楽部に至り、夕刻帰宅。弥々日米会談破裂し、午前米英両国に対する宣戦大詔渙発せらる。我陸海軍は泰、ヒリツピン、シンガポール、ガム島、布哇を襲撃し、大戦果を収む。是より国家益々多難なるべし。

 これもまた至極あっさりとした記述である。(他の日付の日記もこんな感じではあるが)齋藤は開戦前年まで衆議院議員を務めていたが、1940年(昭和15年)2月に行われたいわゆる「反軍演説」により議員を除名された。反軍演説への評価については本稿では言及しないが、反軍演説において齋藤が問うた事柄の一つは「日中戦争の目的は何であるか」であった。結局この問いに対して明確な答えを得ることは出来ず、齋藤は議員を除名された。
 開戦当日の日記は出来事を淡々と述べるに留まり自身の心情を記しておらず「是より国家益々多難なるべし」という一言だけが添えられている。


 と、引用と共に真面目ぶった論評を書き連ねてみましたが、至極俗人的視点で見ると戦争が勃発した当日でも、鴨食ったり風邪ひいたり披露宴行ったりと当時の人々も割とフツーに生きているあたり親近感が湧きますね。
 特に入江の“子供は予が帰るのを待つてゐる。すぐ鴨を料理して一緒に食べる。令子は五膳、為年三膳、可愛いゝ。”という記述なんかは暖かの情景が思い浮かんでほっこりもします。歴史的な出来事も普通の暮らしと地続きなんだなぁと思ったり。
実は他に高松宮日記とか鳩山一郎日記とか大蔵公望日記とかも紹介しようと思ったんですが時間もスペースもいっぱいいっぱいなのでこのあたりで。



by satsuki-afterlife | 2017-12-08 22:30 | 歴史

園橋乃義/サークルわぁにんぐぴゅあ(無印)のブログ


by 園橋乃義
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